パンセクシャルを自認している筆者ですが、最近は、“アライ”と“パンセクシャル”の間があるのではないかと感じています。
今回は、この考察について論じていきます。
【1】歴史的な差別が変わりつつあるLGBT
LGBTには存在を認められなかった歴史や、現在にも残る差別など、昔から今まで多くの困難がありました。しかし最近は少しずつそれが改善されつつあり、正しい知識や温かい声も広まりつつあります。
そんな中で、自分は異性愛者だけれど「LGBTの差別はおかしい、一緒に戦いたい、応援したい」と表明する人もいて、そんな人たちを「アライ(Ally)」と言います。
広い意味ではLGBTに関わらず「マイノリティを応援する人」という意味で使われたり、LGBT同士でもお互いを理解し合うという意味でアライという表現を使ったりもしますが、主にLGBTの問題に関して異性愛者に使われる言葉です。
【2】アライであるということ
アライであるということは、LGBTを差別する気持ちを持たない、様々なセクシャリティがあるということを知っている、もしくは知ろうとする気持ちがあるということ。もちろん精神的な面が根本にあるのは前提ですが、行動に表すこともできます。
例えば、他者を見たときに「異性愛前提」で接しないこと。女性だからと「彼氏いるの?」と聞くのではなく「恋人・パートナーはいるの?」と聞くだけでもそれは立派なアライの行動です。
知り合いにお子さんが生まれたときに「男の子?女の子?」ではなく、「お子さん」と呼ぶこと、「ホモ・レズ」と呼ばないことなど、些細な言葉に優しさを乗せることができるのです。
【3】パンが感じる…アライの気持ちはパンセクシャルに繋がるときもある?
筆者(セクマイ)の友人たちにもアライはたくさんいます。その中でも、一部の友人たちとこんな会話をすることがあるのです。
私「Aさんは異性が好きだけど、将来同性が好きになる可能性ってあると思う?」
Aさん(アライ)「将来のことや人の気持ちは誰にも予測できないから、可能性はゼロじゃないと思う。今好きな人(男性)を好きになるのと同じ感じで、異性じゃない人を好きになっても、それは自然なことだからね」
もちろんこの声はアライを代表するものではないですが、こんな風に考えるアライもいます。かくいう私も、高校を卒業するまでは自分が異性愛者だと思っていましたし、セクシュアリティが「変わる」という経験をしたことがあったので、友人に上記のような質問をしてみたのですが……Aさん(アライ)の思いは、パンセクシャルと通じるものがあると思いませんか?
パンセクシャルとは、「全て」のセクシュアリティ、つまりあらゆる性や性的指向の人を愛する人のことで、「セクシュアリティ関係なく人を愛する」人のこと。好きになる相手をそもそも性別やセクシャリティで選ばないのです。
AさんはLGBTに理解があって、LGBTを自分(異性愛者)と同じ普通の存在として考えています。異性愛者とLGBTにはっきりとした線引きをせず、誰がどんな相手を好きになろうとそれは自然で普通のこと。
だから、自分だって将来は誰をどう愛するかわからないし、異性じゃない人を愛したっておかしくない、とAさんは思っていますが、これは「セクシュアリティ関係なく人を愛する可能性を自分に認めている」という意味で、「潜在的パンセクシャル」と言えます。
つまり、LGBTの存在を普通だと捉えるようになると、恋愛観がパンセクシャル寄り、もしくはパンセクシャルにとても近い考え方になる人もいるということなのです!
【4】まとめ
アライとパンセクシャルの「間」のような感覚を持つ人がいることがわかったように、人のセクシャリティにはグラデーションがあります。
常にそのラベルではなく「その人自身の声を聞いて」向き合うと新たな発見があるかもしれませんね。
(illy/ライター)
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