バブルが弾け就職。困ったのは年齢と怪我をしたことでした。
その上、毒親の母から逃げられず苦しめられます。
【1】バブルが弾け転職…引っかかったのは“年齢”
すでにバブルもはじけ、私は割り切りのできる(自分ではワンナイトオンリー的な)派遣社員として働くことになりました。東京には友達も、コネもなかったし、大阪時代の一般事務のスキルは東京のジョブマーケットでどれだけ通用するか分からなかったからです。
大阪時代に紹介してもらった派遣会社に登録し、簡単に某日系大企業と外資企業のJVの事務が決まりました。しかし、その面接とは新卒の時とはやはり違ったものでした。まともな大企業はやはり紳士的な、常識ある面接をしてきました。
そして、私は無事に「制服」を着ないで済む、東京の“working girlと”なる事が出来たのです。それでも、男性優位のこの日本では履歴書で必見事項は「年齢」。年齢を見る、という事は雇用者側にとって、いつ退職するのか(つまり結婚するのかを)見越す重要なポイントです。
【2】私の保険金をむさぼる母親
新しいオフィスは今や品川ゾンビの駅と化す、品川港南口でした。順調に2週間ほど過ごしましたが、なんと、私は家の階段ですべり転び、脊髄を損傷してしまうことに……。当時は痛みがひどく、起き上がれなかったです。
そして事故発生時は、兄の視界にいたにもかかわらず、兄は手も貸そうともしな買ったのです。兄は中学時代にいじめを受けてから、また大学受験で失敗をしていてから、今でいう引きこもりをしていました。無感動、無表情の兄。
痛みにこらえながら、何とか、起き上がり、そして愚かにも会社に出社した。そして、その後、3ヶ月の入院と1年間の休職を必要と医師から宣告されました。
手術は8時間にも及びもので、三か月、仰向けに寝る生活でした。入院はこれから気温が暑くなるという5月から7月に及んだのです。そして、母が見舞い…というか必要に応じて病院に来ました。
当初は、必要(パジャマとかなんやらかんやら)から病院に来ていたのだけれど、世間的には「社交的」な母は、私と同室の患者のご家族とたまたま生家が近所だったために意気投合し、おしゃべりのために病院に日参してくるようになりました。
しかし、私への態度は相変わらず毒親そのものでした。「なんでこんな怪我するの!」に始まり、果てには入院費の支払いに私の銀行口座からお金を出して支払ってほしいと言うと、「なんでお金を(手元に)用意しておかないの!」と痛みで食事もとれない病人に怒鳴り散らしていました。25万の金を、病院の棚なんかに置いておけるはずがないのですけれどね……。その上、怪我によって降りた保険金も、母親が貪るように使ってしまいました。
【3】まとめ
退院しても、1年は働けないと言われ私は、一大決心をしました。アメリカの大学に行こうと決めたのです。実はいつでも留学出来るようにその準備は出来ていました。
父が早くに亡くなったために受け取った保険金が私にも贈与されたのを原資に、「羽ばたこう」と思い至りました。もう搾取、バカ扱いの日々からは脱却しなければいけない、そう思ったのです。
そして、私はパスポートと学生ビザの申請書を握りしめ、日比谷線に飛び乗り、神谷町のアメリカ大使館に向かい、バイセクシャルの教授たちと出会うことでセクシャルマイノリティについて考えていくようになります。
(田中裕子/ライター)
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