「セクシャルマイノリティ=LGBT」でいいの? ラブドール論争から感じたこと

「セクシャルマイノリティ=LGBT」でいいの? ラブドール論争から感じたこと

先日、Twitter上で「ラブドール論争」とでもいうような議論というか、炎上のようなものがありました。それ自体は別の問題として置いておくとして、ふと気付かされたことがありました。

家族愛的なものでも性愛的なものでも、愛情を向ける対象が人形や人間以外である場合がありますよね。そうした方々も「性的少数者」にあたるのではないでしょうかと。

【1】バリエーションが多いからこそ気付かれないのが少数派

たまにバラエティ番組などで恋愛対象が人間以外の人を面白おかしく紹介していることがあります。人間や生き物の枠を越えて人によっては車であったり、ダムだったりとバリエーション豊かです。

所謂「マニア」的な感情でなく、性的な対象というか恋愛の対象だったりするのですが……こうした方々も「マジョリティ」ではないとは思うんです。「LGBT」の単語が示すものの中には入らなくとも、「少数派」という仲間には違いないのかもしれません。

LGBT当事者として生活していると、どうしても自分達の問題ばかりに必死になってしまい、近い「仲間」の存在に気付かないことや、「いや、向こうと此方は違う」と考えてしまうかもしれません。けれど、LGBT界隈でさえ把握するのが難しい程にバリエーション豊かなのを考えるといっそ「セクシャルマイノリティ」という大きな枠で緩めに考えた方が気楽なのかなあとも思うのです。

【2】性的に興奮するか否かが「愛」ともいえないし…

さて、こうした「セクシャルマイノリティ」に関わる話題になるとどうしても「性自認」系の軸と同時に「性欲」系の軸が出てきます。「性欲」と直球で表現というのもこうした記事において許されるのか否か、と考える所もあるのですが……そもそも食欲、睡眠欲、性欲が人間の三大欲求とも言われておりますので、直球で語ることにしましょう。

そしてその本能とは別の枠として各々の性格に様々な「愛」が存在すると思うんですよ。友人達に向ける優しさだとか、花を愛でたりするような瞬間も広い枠では「愛」でしょう。「恋」というよりも。それくらい「愛」という言葉の関われる範囲は広いわけですから、それと性欲が直結するかと言われればまた別の話ではないでしょうか。

逆に、そこを直結して考えてしまうと「セクシャルマイノリティ」が分からなくなっていく気がします。

【3】「おしら様」信仰や、世界各地の異類婚姻譚を考える

話を少々戻します。この話題について考えた時に思い出したのが「おしら様」という存在です。「遠野物語」にも書かれている伝承で、由来も2種類あるのですがその一方に「農家の娘が家の馬と仲が良く、ついには夫婦になった」という所から始まるものがあるんですよ。

その「おしら様」信仰とその詳細は長くなってしまうのでやめておきますが、よくよく考えると日本でも海外でも「人間以外のものと結ばれる」という「異類婚姻譚」はあちこちにあります。

こうして各地に存在するのであれば、それがゼロからの創作であれ何かがあった上で伝えられたものであれ、「セクシャルマイノリティ」の存在を感じさせる一端になりますね。

【4】まとめ

こうして「セクシャルマイノリティ」という枠を広げに広げて考えてみると、LGBTだけで収まるものではないなと実感することになりました。

例えば記事の冒頭の「ドール」のお話について考えてみれば、ドールを家族のように愛でる方からすれば「なんで生身の人間に変なことを言われなければならんのだ」と思うことでしょうし。実際、筆者も球体関節人形などのドールの美しさに惚れそうになることがよくあります(そしてその値段を見て驚くまでがセットです)。

ようやっとLGBTという単語も、セクシャルマイノリティという単語も世の中に浸透してはきましたが、その幅広さを忘れてはならないなと自戒を込めてのお話でした。

(シキ/ライター)

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