記事といいますか、過去への祈りのようにこれを書いています。
今のセクシャルマイノリティ界隈が賑わって来たことを、それまでに沢山の方々が頑張って来られた「誰か」を思って綴る手紙のように……。
【1】周知されつつある「私たち」
現在、理解や受け入れられているか否かはさておいて「LGBT」や「セクシャルマイノリティ」という言葉が一般に少しずつではありますが浸透してきました。これは当事者として非常に嬉しいことですし、「知ってもらったからこそ出てきた問題」など、次のステージを考えることも出来るようになりました。
とりあえず深くは知らないし、なんとなくだけどという理解の人もいらっしゃいますね。それでも、「そんなものはいない」とされるよりはまあ良いのではないかなあとも思っています。人それぞれに得意不得意があるように、人によって受け皿の大きさや深さは違うものですから。
とはいえ、世の中がこうして変わってきたのはこの時代に生きている当事者や活動をしている人々の力だけではないと思うのです。命のリレーのように、先達から託されたバトンを受けとっただけに過ぎません。
【2】一昔前ですらない時代で声を上げてくれた「先輩たち」
今でこそ否定されましたが、一昔前には同性愛というものが精神的な病と考えられていたりしました。
そして、これは宗教的なお話も関わるので一概に悪と断じることも出来ないのですが、現在でも同性愛者というだけで存在を認められないどころか何らかの刑罰となる国や地域も存在します。
(悪だと言い切れないのは、宗教というこれもまた人の生活に深く根ざす文化だったり共同体を作る上で重要なものだったりするからです)
その一方で、同性婚が認められていたり、多様性のある関係を認める国や地域も増えましたし、国内でもパートナーシップ条例を認める土地も増えました。これはただ「そういう流れ」ではなく、「流れの元になるものを作ってくれた」方が何処かにいる、もしくは過去にいたということです。
【3】いないことにされないために
流れは出来ました。でも、流れというのは簡単に止まったり何処かで消えてしまうことを、私たちは日常の中で「世間の流行」というものによってよく知っています。
そう、流れが出来たからといって油断は出来ませんし、このまま流れに乗ればどうにかなるというものでもないのです。もしかしたら、その流れが誰かに利用されていたり、自分の求める方向とは違う方へと向かっていくかもしれないのですから。
ですから、少しずつでも次にバトンを渡す誰かの為に私たちは声を上げておいたり、考えを深めることが重要です。少なくとも、考えることはどれも無駄ではないと思うのです。声を上げられるかどうかはまだまだ人によりけり、地域や周りの環境によってまちまちなのは否めませんから、全員がやらねばならないとはいえません。
考えて、声を上げられる誰かに託すのも一つの手ではあります。居ないことにされないように、もうひと踏ん張りしましょう。
【4】命のリレーをつないでいる
こうしたセクシャルマイノリティに関する歴史は、深く掘り出していけば様々なものが出てきますし古代から現代まで世界のあちこちに存在しています。なので、大きな枠で語らせていただきました。
私たちにはまだ周囲から見て分かりやすい「命のリレー」をつないでいるようには見えないのでしょう。それでも、誰かを助けるとまではいかなくとも誰かを絶望から引き戻すくらいの「命のリレー」をつないでいるのだと思います。
(シキ/ライター)
コメントを残す