先日、Twitterを眺めていたら面白いというか「目から鱗」なツイートを見かけました。普段世の中に溢れている様々な価値観に慣れていると、セクシャルマイノリティ当事者でも案外気が付かない変な言葉は多くあるな…という話です。
【1】性別を越えた愛とは?
「同性愛のことを『性別を越えた愛』とか言われるたびにいや全然越えてない同性同性ってなるし、むしろ性別越えてるのそっち(異性愛)やろってなる」というツイートを見かけました。
見た瞬間に「言われてみたらそうだ!」と筆者はパシーンと手のひらで膝を打ちました。
世の中で頻繁に使われる表現に慣れていたせいか、一応セクシャルマイノリティ当事者の端くれではあるもののこの視点をすっかり忘れていたんですね。
【2】マジョリティという意識から生まれる先入観
フィクションでもノンフィクションでも、思い出してみると同性愛が出てくる作品には「性別を越えた愛」などの文字をよく目にします。
とはいえ、それは私たちが無意識に異性愛が多数派という思い込みがあるからこそこの一文と同性愛が結びつくのであって、文字通りに受け止めるとなると「性別を越える=同性同士ではなく異性との関係を結ぶ」になるんですよね。
こうなってくると日本語って難しいというお話にもなるのですが、「じゃあ性別を越えた愛とはなんなんだ」と首をひねりたくなります。性別ということになりますとXジェンダーのように男性・女性の括りに収まらない筆者のような存在も出てくるので、「個人を越えた結びつき」が愛という解釈でいいのではないかとも思ってしまいます。
性別や性格もひっくるめて一人一人が持つ「個性」という枠と、それを越えて誰かと強い結びつきを持つのなら本来は必要のない言葉なのかもしれません。世の中に溢れている言葉というものには、麻痺させられてしまうものですね。
【3】意外とこうした言葉は多い…
よくよく考えてみると、今回お話に出した言葉以外にも慣れ親しんでしまっているだけでこうした言葉の話は他にもあるのではないでしょうか。
例えば「禁断の愛」だとかも、同性愛作品の紹介で見受けられることがあります。果たして、何が「禁断」なのか。宗教上の理由であるとか、法律上の問題であるという国や地域も確かにあるものですが、異性愛の作品にも同じレベルかそれ以上の「禁断」が扱われていることもあります。
此方も此方でやはり宗教、法律、それから遺伝などの「禁断」を扱っていたりするので一概に善悪つけられるものではないのですが、作品そのものを紹介するには足りない言葉になりつつあるのではないかと思っています。
少なくともセクシャルマイノリティについての認知度は広がっていますし、その他社会の価値観も変わりつつある世の中なので言葉の意味を改めて考える時期に来ているのかもしれませんね。
【4】価値観の影響は大きい
ひとつのツイートから重箱の隅をつつくような細かい話をしてしまった気もしますが、どうしてもマジョリティの価値観に影響されてしまい引っかかるような言葉にも鈍くなることがあります。
そうした鈍さは生きていく上で必要な鈍さではありますが、折角世の中に様々な変化が起きていることですし、そうしたものに今一度目を向けて考え直してみるのも大切なことだと思うのです。
(シキ/ライター)
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