アセクシャルは、往々にして自己の自認を見直すことがあると思います。
今回は、自信に訪れた起点についてお話しします。
【1】もしかしてアセクシャルじゃない? 自認の揺らぎ
私はアセクシュアルであるとカミングアウトこのの場においてはじめて広言をしたのですが、もしかしたら、私は言葉を撤回すべきなのかどうか、迷っています。
きっかけは本当に偶然で、同時で、そして偶発的な出来事だったのです。
私は、ある人を、ある男性を愛するようになっているのです、今この、この原稿を書いている間にも私の胸は抑えられないほどの、ほとばしりを、自分でも困惑しています。
その男性はある意味、メディアに出られてる方のため、プライバシーを伏せますが、その男性が私のセクシュアリティを変えつつあるのかもしれません。
【2】余談ですが看護師のツイートについて…
私は時々ですが、Twitterでつぶやいています。よろしかったらご覧くださると幸いですが、本当に、『つぶやき』なのです。たわいもないこと、うちのにゃんズがどうとか、こうとか。
でも、本日は、某ナースの方がつぶやいていらっしゃったのをフォローさせていただいたところ、大変なインプレッション数を頂いたのです。明日になるとどうなるんだろう、とあれよ、あれよと15,000以上のインプレションが付きました。
某医療従事者、おそらく看護師の方が臨終近いおじいさまに掻便(自分では排便出来ない方の便をグローブをして指で書き出すこと)をされ、その後そのおじいさんは、「すっきりしたー」と感謝を述べられ、そして、3時間後におだやかに霊山に旅立たれたそうです。
そのつぶやきに対して、私は「本当のプロフェッショナルなんですね(看護師?の方に対し)、亡くなったおじいさん、感謝されて天国に召されたと思います」とリプを入れたのです、たったそれだけの「つぶやき」。
そうしたら、何やらスマホをのぞいてみるとスゴい数のインプレッションの数がツイッターのアイコンの上にのっかっているではないか…と驚きました。私の変哲のないリプにこんな15,000、いや、今の時点から考えるともう20,000ぐらい明日の朝にはなっているのかもしれないけれど、反応があったのです。スゴい驚きでした。でも、なんか、私にとっては驚くことではないのです。
【3】看護師の博愛と慈恵、恋愛における愛…何が違うのか
このshanoのサイトにはいろんなセクシュアリティの方が読者の中にいらっしゃると思います。みなさんどうだろうか、自分が愛し、愛され、それが男女だろうが、ナースと患者の「博愛と慈恵」だろうが、どんな形の愛を感じた時あなたはどう感じますか?
私は長い間アセクシュアルという立場でいたけれど(とはいえ男性と結婚歴は有り、また別途後にお話ししたいと思います)、なぜか、今、“何か”が私に起きている、そしてそれは“愛”なのかもしれないと思うことがありました。皆様の中に、まさしくそういうことが起きている人なのかもしれません。
また、それは、あなたが“愛”と思っていないかも知れないけれど、“性愛”をはずした時に、人間はすべからく人、モノ、動物にやら、ありとあらゆるものに“愛”を感じているのではないだろうか、と私は思っています。
私は、予期もせず“男性に愛を覚えた”のですが、アセクシャルだと思っていただけに困惑しています。自分に起こっていることに、そして世界がまるっきり違ってみえるようにもなりそうなくらいな変化を感じているのです。
“愛”ってなんだろう……。こんなにも偶然にまるで、変化が現れる。生きるというのは奇跡という偶発の連続なのですね。
【4】まとめ
アセクシャルは恋愛感情を持たずとも、愛情は有しているといいます。
ですが、性愛を除いた愛を異性に抱いた時、それは恋なのでしょうか。それとも恋と愛はまた違うのでしょうか。
駆け巡る感情に混乱を覚えつつ、自分が何者なのか、また考え直しています。
(田中裕子/ライター)
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