私は、ストレートです。数は決して多くないですが、セクマイの方と接する中で、自分の中で明らかに考え方に変化が生まれたことがあります。
それは「世の中に存在しているカテゴリーに対しての疑問」です。
今までそんなことを考えたことはなかったですし、カテゴリーで対象を判断することは、対象を理解することに役立っていると思っていましたが、最近では、カテゴリーに分けないほうが理解が早まるのではないかと感じるのです。
【1】カテゴリーで判断することが難しい
私はセクマイの方と会う中で、LGBTQというカテゴリーで判断すること自体が難しいと思いました。
相手を理解する手助けとして、例えばカテゴリーである「ゲイ」と認識するとします。それでも、ゲイだけど〇〇という風に、例外や付け足しが多くあり、結果的に、皆違うという結論に至りました。
そもそも、カテゴリーに綺麗に当てはまらない人だっています。
そうなると、最初に元々あるカテゴリーに分けて、それに沿った特徴を参考に理解しようして、それと違うことがいくつも出てくると、脳の処理が追い付かなくなるということではないかと思いました。
それだったら、最初からカテゴリーに分けないで、ゼロから相手を理解しようとした方が、そもそも誤解が生まれないのでスムーズなのではないかと思うようになりました。
【2】カテゴリーは排除につながる?
この気づきは私の脳を驚くくらい変化させてくれることになりました。
今まで当たり前と思っていた社会のカテゴリー分けそのものにも疑問を持つようになり、そのカテゴリーがあるせいで、まともと落ちこぼれという分け方や、正当と異端という極端な分け方になって、たまたま数が少ないだけで、少数が排除されてしまう世の中になっているのではないかと思うようになりました。
性別、年齢、国籍、貧富、肌の色の違いなどありとあらゆるカテゴリーはあくまでも一つの目印でしかなく、それは絶対的な指針ではない。人間は一人ひとり違う、だから一人ひとりを理解するために会話するのではないかと思いました。
例えば、ゲイの友人を一人知っているからと言ってゲイの全てを分かった気になってはいけないですし、韓国人の友人を一人知っているからと言って、韓国人の全てを知った気になってはいけないのです。
それはその人を一人知っているに過ぎないのだなと思いました。
【3】まとめ
今までステレオタイプで意見を言っていた自分がとても恥ずかしいと思いました。これからは、そういうことはできないです。
こんな大切な気づきをできたことは、セクマイの方と接したからです。これから新しい物の見方で社会を見ることができるのは、とても楽しみです。
(Shano編集部)
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