女性の同性愛の歴史もいくらか残っています。
今回はレズビアンというセクシャルマイノリティに至るまでの歴史をたどっていきましょう。
【1】日本における女性の同性愛のデータ
日本における同性愛の歴史は、ゲイに関しては男色・衆道が歴史上のデータとして多く残っています。
それに比べて日本における女性の同性愛については未解明な部分が多いようです。
しかし、確かに男色・衆道と共に女性の同性愛が行われてきたというデータは残っています。
今回は解明されている日本における女性の同性愛の歴史に触れてみたいと思います。
【2】解明されている女性の同性愛
女性の同性愛とは、歴史上どのように扱われてきたのでしょうか。
詳しく確認していきましょう。
(1)前近代は「異性愛」と女性同士の性愛が並立
女性の同性愛が不解明なところが多い理由は、女性が結婚以外に堂々と恋愛をすることを貞操という観念によって抑えられていたことが考えられます。文学界も男性作家が多いということもあり、女性同士の恋愛をテーマにした作品が少ないということもあります。
しかし女性作家が活躍する余地があった13世紀に書かれた、日本で最初の女性同士の恋愛を明確に描いた宮廷文学「我身にたどる姫君」という作品があります。
その作中に登場する女性たちは女性同士の性愛と「男性に娶られたい」というマジョリティらしい感情が矛盾することなく並立して描かれています。
この事から近代的にいうと、レズビアンというよりもクィア(現代の意味合いは性的少数者全体を包括するという用語)に近いと言われています。前近代の女性たちは自らのセクシュアリティを明確に定めず、自由に恋愛をしていたと考えられます。
(2)江戸時代の衆道の裏に女性同士の性愛も
江戸時代には衆道が流行する中、文化的な方面では葛飾北斎や歌川国麿などの浮世絵師が女性同士の性交を描いた春画を描いています。
女牢(女性専用の牢獄)では日常的に同性愛が行われており、遊女の間やあの大奥の間でも女性同士の恋愛はあったといわれています。
そのため、女性同士で楽しむアダルトグッズが多くあった…というのも知る人が知る話です。大奥老女の絵島が侍女の紅葉を寵愛していたのが大奥内での女性同士の同性愛として有名です。
(3)20世紀に入り注目される女性同士の恋愛
明治に入ると西欧キリスト教文化や精神医学が日本に広まったことで、レズビアンなどの同性愛は否定されるようになります。
ですが20世紀に入り資本主義社会の発展によって自由と退廃の文化と女性の権利が向上したことによって、文学の表現などでレズビアンをテーマにするものが出てくるようになります。実際にも平塚らいてうと尾竹一技などの著名人の同性愛関係も確認されています。
1911年の新潟県で起きた女学校卒業生同士の心中事件が報道され、それまで注目を向けられていた男色中心の男性の同性愛から女性同士の同性愛へ注目が向けられるようになります(「エス」という関係に注目が向けられるようになります。「女性同士のエスという関係」の記事で詳細を記載しています)
1971年には「若草の会」という日本初のレズビアンサークルが設立されました。月1回集会があり、会員は5年間で500人となり会誌も発行されていました。若草の会は15年間続き、分派して他のグループが作られていたりしていたようです。
【3】まとめ
男性同士の男色・衆道に注目が向けられることが多く、日本の女性の同性愛については不解明なところが多くなっています。
それは、女性の権利が弱かったのも関係しているのではないかと思われます。20世紀に入り、女性の権利が向上したことで表に出るようになりました。その前でも女性同士の恋愛は注目されていないだけであって、女性同士の恋愛は確かにあったのでしょう。
(みなと/ライター)
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