ゲイが伝わる以前からある男色・衆道の歴史〜誕生から衰退まで〜

日本には男色・衆道という文化があります。

今回は歴史をたどっていきましょう。

 

【1】日本の同性愛の始まりは“男色”“衆道”から

「ゲイ」という言葉が日本に伝わる前から、古代から男性同士の恋愛はあり「男色」、「衆道」と呼ばれていました。

古代の男色習慣は中国から伝来し、日本の文化に取り込まれていったと言われています。

最も男色が広まっていったのは平安時代からといわれています、そこで平安時代から男色・衆道が衰退する江戸時代までの歴史に触れていこうと思います。

 

【2】日本における“男色”“衆道”の歴史

男色・衆道とはなぜ生まれ、衰退していったのでしょうか。

歴史を深く掘り下げていきます。

(1)始まりは平安時代の「稚児」から

奈良・平安時代に仏教が広まると一緒に、寺院に「稚児」と呼ばれる女人禁制の寺院に預けられた少年たちを僧侶たちが男色の相手にしたことから広まりを見せ始めます。

稚児は時折、女装をさせられ女性の代わりに僧侶たちの相手をさせられていたといいます。

平安末期には男色の流行が公家まで広がり、一部の公家には美少年が集められていたそうです。

(2)武士の主従関係からの「男色」へ

室町時代から武士の間でも男色が流行し、主従関係の価値観も重ね合わせて強い関係性が結ばれていました。

戦国時代にはますます衆道が盛んになっていき、戦国大名が小姓を衆道の対象としていた例が数多く見られるようになります。女人禁制の戦場に連れていける小姓を衆道の対象としていることが大きな流行の原因となっていたのでしょう。

衆道は戦国大名にとって一種のステータスともいえます。歴史に詳しくない方でも、織田信長と小姓の森蘭丸との関係を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。

主従関係が衆道の基本とはいえ、色恋沙汰のようなことが起こっていました。かの武田信玄は衆道関係である小姓に別の小姓との浮気を疑われ、起請文(人が契約を破らないことを神仏に誓う文章)を書いて浮気をしていないと神仏に誓ったこともあります。

(3)江戸時代の男色文化全盛から幕末・明治に衰退へ

江戸時代から武家の作法と男色が融合したものを「若衆道」と呼ぶようになり、略されて「衆道」と言うようになっていきます。

徳川将軍15代のうち、7人は衆道に溺れていたといわれています。特に徳川3代将軍の徳川家光は少年ばかりを愛し、女性に見向きもしませんでした。心配に思った乳母の春日局があの大奥を作ったと言われています。

男色文化は町人文化へ広がり、陰間という男色専門の男娼が客を取る陰間茶屋が流行しました。しかし江戸時代中期になると、美少年をめぐった刃傷事件が起きたりと風紀を乱すものとして問題視されるようになっていきます。

男色行為を禁止にする藩主も現れ、江戸幕府も徹底的な風紀の取り締まるようになり1842年には陰間茶屋を禁止にしました。公然に男色行為が行われなくなりましたが、男色小説や男色春画作品などや風俗としての男色は幕末まで続きました。

明治維新の辺りから文明開化と共に同性愛を悪とする西洋キリスト教が広まり、急速に同性愛は異端視されるようになります。また、幕末では高嶺の花であった遊郭が手軽になったのと都市部の女性比率が改善されたことにより男色は衰退していきました。

 

【3】まとめ

女人禁制の場面が多く、女性の代わりに男性同士が恋愛関係になることが多いので機会的同性愛となることが流行の主な原因と見られます。

男色文化は明治には刑罰の対象になりますが大正・昭和にゲイバーなどのコミュニティが出来たり、1960年代に新宿2丁目のゲイタウンの始まりから今に至ることになります。

(みなと/ライター)

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