私はDVとも言え、さらに経済的搾取を行う家で育ちました。さらに、セクハラやアルハラなんていうのは当たり前でした。
今でこそ、社会問題として取り上げられるようになりましたが、当時は周りがどうにかしてくれる社会ではありません。
それに加えて、アセクシャルというマイノリティ……。自分とは一体何者で、なんなのでしょうか。
【1】毒親、そしてDV
12回も転勤、転居し、私は疲れてしまいました。母親の気まぐれ、理不尽さ、横暴さにへとへと疲弊してしまっていました。
今でこそ、「毒親」という言葉が浸透しているけれど、昔はそんな言葉もあるはずはなく、ましてや、ビンタや、お仕置きも「あなたの為を思ってやっているのよ」という親の身勝手さ、が認知されていない時代でした。
私の母は、私にだけは恐ろしかったです。3歳のころは、家の前の公園から帰ってくるやいなや、鬼の形相で私の腕をひっつかみ、そして床に伏せて、灸をすえる、という事を繰り返しました。
そして、ある時は、私が友人を家に連れてきたというだけで、その友達を体よく帰らせると、私は折檻されました。裁縫用の竹製の1メートルの物差しでそれが割れるまで、私の体を叩きのめすのです。手足からも血が出ようと容赦ははなかったです。
【2】社会人になったら経済的搾取をする親
でも、社会人になってもある意味そういう生活は続きました。経済的搾取、という形でです。
家に5万いれろ、車を買ったから(私は一言も車を買うことも聞いていなかったし、必要とも思っていなかったです)金を出せ、自動車保険の金も出せ、と枚挙がないのです……。
そして、挙句に前回の記事に述べたようにいきなり東京に家を買い、転居3日前にその事を私に話すようなことをする人でした。私はもう母親、と呼べる状態ではありませんでした。
その上、会社では「型」にはめられた制服を着ながら、お茶と電話番と、美徳とされる残業を行っていました。飲み会は拒否は出来ないし、お酒も今でいう「アルハラ」。飲めないのに、飲めというカルチャーでした。
【3】家庭だろうが職場だろうが逃げていい
今だから思うのだけれど、毒親にしろ、そんなバカげた会社にしろ、我慢することなんてありません。
しがみついてしまう人や逃げる選択肢が抜け落ちてしまう人は多いと思いますが、そんな家庭や会社に将来はありませんから。実際に私はそうでした。
そんなところから逃げれば良いし、会社も辞めていいです。ありとあらゆる手立てを使って、(極論生活保護なども)その環境から逃げなることが必要です。自分の精神と体、そして生きることが何より大事です。
【4】毒親で転校生でマイノリティで…私とは?
私はアセクシュアリティ。いくらその当時自分のセクシュアリティを意識していなかったとは言え、自分がマイナリティなのは分かっていました。
「いつも転校生」、いつも「私だけ母から折檻される」「いつもお金を搾取される」。まるでエクセルのフィルター機能をつけると、私みたいな人間はどのくらい残るのだろうか、と考えてしまいます。精神はひどく疲弊し、悩み、悩み、本能が「逃げろ!」と言っていました。
そこで、会社を退職し、東京で毒親とそしてスポイルされた兄と新しく購入した家で生活が始まりました。でも、構図はいつも一緒。家での家事仕事はすべて私でした。
【5】まとめ
きつい、汚い、臭い。そして金銭的搾取の生活。その当時私の手元に残っていたお金はたった2万円でした。
月に2万円。一般事務の仕事をして、それだけしか残らない。まるで現代の悪徳ブローカーのような母親の元で私は暮らしていましたが、またそこに一つの曲がり角があったのです。
いつか救われる…そう信じて生きていけば、未来はあるのかもしれませんね。
(田中裕子/ライター)
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