アセクシャルを自認する前、男性と一つになりました。
そこで感じた感想は、のちにアセクシャルを自認して納得するものでした。
【1】“処女喪失”が重要視される?
私は大阪勤務時代に二十歳も違う、それもアメリカ人男性と付き合いをはじめ、処女を喪失しました。その頃、自分はアセクシャルだとつゆ知らず、「ストレートだ」と思っていたし、その男性は海外居住で勤務歴が長く、海外や職場の話など、話すことにネタが尽きることは無かったです。
しかし、彼と初めてエッチをしたときは、なんの思いもありませんでした。けれど、私は単に処女喪失、というある意味の水戸黄門でいうところの「ご印籠」が欲しかったのです。喪失しました、と。
なぜなら、当時、アセクシャルを自認してはいないけれど、ストレートだとは思っているけれど、心のどこかで違うかもしれないという違和感があったので、私はマイナリティーな自分であることが自分の不幸の原因で一つであると思っていたからです。
自分がストレートもしくは他の女の子のような事をすれば、自分の喪失感というか何か埋め合わせないといけない部分を補えるのではないか、と思ったからでした。
【2】恋愛に冷めている自分…優しいから好きってどういうこと?
ロストバージンは何の変化も与えてくれませんでした。私の場合痛みがなく、性的快感もなく……。ただ、裸で彼と抱きしめあっている時は幸せに思えたのを覚えています。
誰かが私を受けとめてくれている、そんな安心感が私を幸せにしてくれました。でも、私は毎回のデートの後の「お泊りとエッチ」がほとほとウンザリするものに感じていました。
付き合っていた彼はいい人だし、いて楽しいし、私の知らないことを教えてくれる。何しろ人生経験が20歳も上だから豊富なのですから。だから、ずるずると付き合う形になってしまいました。でも、彼は私のことを「優しい」から好きだという。その言葉を聞いた時に、なんか白々した気持ちが心をよぎりました。
私が「優しい」という条件で彼は私のことが好きなのだ、なんか、違う、恋愛とはそんなものじゃないし、私はそんなものを求めてはいない…そう思いました。私が「優しい」から好き、という言葉になにかストーンと心が落ちてしまったことと、私が東京に移ったことによって、彼との関係は「物理的」には無くなりました。
【3】性行為になにも感じない失望と安心感
私は、性行為になにも感じない自分に失望し、同時に安心感を覚えました。私は「私に性行為は必要ない」としっかり認識したのです。
もちろんエッチをしたのだから、キスもしたし、お触りもされました。だけど、なんか、私には、異星人の行為というか…本当に、これが“愛の行為”なのか良く分からなかったし、正直、私にはその手の欲求は無かったです。
彼の部屋を見ると、私とする前に女がいたのは確実で、半開きになった戸棚からはコンドームの袋が垂れ下がっていました。
そして、後から分かるのだけれども、彼は結婚をしていました。それも、日本人の女性と……。そしてその女性はアメリカでアメリカ人の男性と一緒に暮らしていた。よくいう“複雑な家庭”というところだったのでしょう。
【4】まとめ
生まれて初めて男性と付き合い、エッチをした私は改めて認識しました。私は「人を愛することが出来ない人間」だと感じるようになったのです。
精神的に逆につらくなってしまいました。ストレートでもなく、レズビアンでもなく、バイでもなく。まず、「愛」する事が出来ない……。そんな不完全な人間。
当時、アセクシャルなんていう言葉を知る由もありませんでしたが、「恋愛はしないでおこう」と思いました思った。そして、東京に、後に米国に発ち、仕事などの生活を充実させていくのです。
(田中裕子/ライター)
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