性嫌悪などなく、性に関する知識も人並み。
そんな自分がアセクシャルだと気づくのには、50年もの月日を要してしまいました。
【1】性に関する知識はあったのに…
性に関しては「人並み」の知識は持ってはいたと思っていたけれど、どうも実際は違うらしい、と気が付くのに、人生50年かかってしまいました。
戦国時代の織田信長は、舞を舞いながら、「人生50年~」詠んでいたそうですが、戦国時代に私が生まれていたら、自分のセクシュアリティを知らずに死んでいたかもしれないですね。
LGBTと世に叫ばれる中でたまたまアセクシュアルという言葉を知り、「あ、これ、私!」と気がついたんです。
【2】アメリカで留学していても…アセクシャルという言葉を知らなかった
大学はアメリカの大学に留学したので、英語には自信があったのだが、性的なボキャブラリーが足りなかったのでしょうか?
または、最近のLGBT運動にそんなに注意を払っていなかったせいであろうか、アセクシュアルという言葉は全く初めて聞く言葉ではありましたが、私の生き方はまさにアセクシュアルでした。
男性にも、女性にも性的興味がわかない。そして、性的行為に興味がわかないし、でも、実際、性的行為はやってみないと分からないから、と思い大学時代にエッチを遅まきながら経験しました。さながら人体実験ですね。やはり、エッチには魅力を感じませんでした。
【3】エッチで肌を重ねるのは気持ちがいい…でもそれ以上のことはない
エッチは「肌を重ねる」という意味では気持ちよかったです。暖かい。やはり、人間のはだというのは暖かい。抱かれる、というのは気持ちいいものですね。
しかし、私は、挿入される行為や、体液が流れるなどなどが気になり、何となく、セックスというのは生々しい行為なのだな…という実感しか伴わず、エッチのパートナーには悪いのですが、「イッた」ふりをしておきました。
ただ、イかない私自身に疑問を感じ、その後、何回かパートナー(異性)とセックスを試みることになります。実際、インターネットでエッチの相手を募集してエッチをしたくらいです。
それでも、な~んかな…という気持ちはぬぐえなかったです。だけど、自分自身に自分が精神的に欠落しているなどという気持ちというものは沸き起こることもなかったのです。
ある意味ラッキーだったのかもしれないですね。自分がストレートでないことに悩み、苦しむ人が大勢いることも事実なのですから……。
【4】まとめ
アセクシュアリティであることに対して私はネガティブに思ったことはありません。
恋愛感情なしでも友情でつながっていることが出来るし、今のまったくのアセクシュアルな自分が心地いいのです。
(田中裕子/ライター)