【私が50年かけてAセクを自認するまで〜後編〜】世は性に奔放! Aセクには世知辛い…

私が50年かけてAセクを自認するまで

前編では、ブルジョワ女子中学校を転校して、初めてアソコを持つ不思議な空間に触れ、そこで出会った男子と傍目から見ると恋愛をしているように見えるも、アセクシャルの片鱗を見せていた私。

中編では、家庭機能不全になり、妹は中学からエッチをし高1で妊娠、兄はベランダから逃走して家出、私は自分自身がわからなくなり普通でいる努力をしてストレスを抱えたお話をしました。

今回は、家庭機能不全が終わり大人になっていくお話をします。

 

【1】授業中にエッチの話で盛り上がる専門学校

不機能家族は、幸運なことに長くは続きませんでした。兄は二浪して何とかそこそこの大学に入学しました。対して私は、いきなり芸大進学をあきらめてしまいました。トランペットという楽器に限っては、男性の肺機能にはまったくかなわないというのを認識したのが理由でした。女子にはパワーが足りないのです。

そして、芸大は狭き門です。一学年にトランペット専攻は一人か二人しか入学を許されません。そんな過酷な競争に私は勝てる勇気がなかったのです。だから、普通の大学受験に転向したものの、それまで音楽バカだった私はすっかり普通の大学受験には対応できなくなっており、最終的には会計の専門学校に入学し、税理士・会計士を目指すことにしました。この頃起きた大きな変化は、父がガンで亡くなってしまったことでした。

専門学校時代、私の心はすさんで行きました。自分が負け犬になった感じになった気持ちに沈んでしまったからです。周りは大学受験に失敗した人ばかり。特に、「女子」はひどかった。それこそ、授業中にエッチの話を事細かに話し、その話を聞いた女の子が鼻血を出す…なんてことがあるようなクラスだったからです。

アセクシュアルと気が付いていない私は、女子満載の専門学校で、それもさかりが付いた犬のような女の子たちが多い中で植物性女子(と私は当時思っていた)という感じで、クラスの中の地味なグループの女の子たちとつるんでいました。しかし、世はバブル経済。日本中が踊っていました。地味な…と言いつつも、ブランド服を着て、毎月10万のバイト代を稼ぎ遊んでいました。そんな中でも、私は男の子には興味は持てなかったのでした。

アセクシャルという言葉を知らないばかりに…エッチを求められる辛さ

 

【2】職場で伴侶を見つける時代…就職はセクハラ会社

会計の資格を取って、バブルの波に乗り、私や同級生は、容易に就職をすることが出来ました。今のジョブマーケットとは大違いです。例えば、私の友人はメガバンクを10時に面接に行くと、午後の2時には採用の通知がもらえるような時代でした。本当におかしな、浮かれた時代だったと思います。

でも、新卒入社は大切な節目。なぜなら、そこでは、私の将来の上司曰く(外資系の上司でさえも)「将来の伴侶を見つける場」であるから。だから、そういう意味では、私は大失敗をすることになりました。

私は入社した会社は某上場会社のメーカーで、その大阪支店の営業事務の仕事でした。数年ぶりの女性採用ということで、会社側も歓迎してくれているのが分かったが、とんでもない会社でした。仕事中にお尻は触らされるは、巨乳の私のバストをジロジロ見てくるわ、夏休みはキャンプがあり、水着になるのが義務だったのです。

アセクシャルという言葉を知らず、世間の目を気にして…結婚してしまった人の話

 

【3】まとめ

そんな会社で、私は仕事を終えて帰途につく度に思ったことは、「私に女を求めるな!」ということでした。

前回の記事でも、書いたように、自分が望まないことを無理強いすることはものすごいストレスを産みます。なおさら、無理強いされるとです。そのため、私は3年で退職をしました。

留学したのち転職をし、そこでも精神を消耗しフリーライターとして活動する中、セクシャルマイノリティのジャンルを知り自分がアセクシュアルだと気づくのです。

(田中裕子/ライター)

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10万とび50歳(笑)なのに、つい最近まで自分がアセクシャルであることに気が付かなかったノホホン女子 。社会人3年経験後に、思い切ってアメリカ留学。金融に勤務後にうつ病で、障害者認定…。それでも、明るく×2にゃんずと暮らしながらアセクシュアルであることに誇りを持って楽しくライターをしています。性的に気持ちいいことは抱っこ。嫌悪タイプではなく、暖かい人肌が大好きです。