それがどんなセクシャルマイノリティだとしても、周囲にカミングアウトすると何故か「自分のことを(恋愛的に)狙わないで」と言われたことがある人は未だに多いのではないでしょうか。特にレズビアンやゲイセクシャル、トランスジェンダーはあるあるな気がします。
かく言う私もその一人です。そして、最早かなり昔の話になってしまいますが私以上に苦しんでいた学生時代の友人との話をしようと思います。
【1】早くに自分のセクシャリティを自覚していたからこそ
今ではもう連絡を取る術さえ無くなってしまいましたが、共通の友人から紹介された彼女はレスビアンでした。
音楽の趣味から仲良くなり、休み時間や放課後にしばしば遊ぶ機会の多くなった頃にカミングアウトされたのでしょうが、多分世間話の延長くらいの感覚でお互い話していたのでしょう。衝撃を受けたとか、そういった記憶はないです。
当時は私も自分が「どこに属するかは分からないけれど、多数派のセクシャリティではない」と自覚していましたし、それも彼女に話していたからそれくらいの感覚で話せていたのだと思います。それよりも、彼女が時折こぼす言葉が印象に残っていました。
【2】友達と恋愛対象の好きは違うのに…
友人としての「好き」と、恋愛対象としての「好き」には違いがある人が多いと思います。
そして、そうなると友人間でのスキンシップと恋人とのスキンシップにも違いが出るのも当然ですよね。
彼女は「狙わないでね」と過去に言われたことがあるのでしょう、同性異性問わず友人達との身体的接触に不安を感じていることを話していました。
また、気兼ねせず自分が居られる場所を探しているようなことも話していました。
【3】友達との時間は気楽
同性愛であれ異性愛であれその他であれ、恋愛感情を持つ場合「好み」というのはありますよね。
友人からすれば当時の私は完全に「タイプ外」だったのです。恋愛対象として好みではないというわけで人によってはプライドを傷つけられると思うかもしれませんが、だからこそ友人にはなれるんです。
私も私で多数派のセクシャリティではないという自覚があったので、友人との時間が気楽だったのを覚えています。
【4】「狙わないでね」という人の心理
ところで、「狙わないでね」と言ってしまう人の心理というのはどういうものなのでしょうね。ある日突然自分の友人から性的対象に見られているのではと知って咄嗟に出てしまうのか、もっと違う理由なのか。
例えば、セクシャルマイノリティというのはもの凄く大きな重たい話題に感じてしまって、その重みを和らげたくて言ってしまうのか。
私が言われて感じたのはこのようなタイプが多かったかな、と思っていますが私一人の感覚だけなので「こうだ!」と言い切れるものではないですね。
あとは、理解しているという意思表示というか「理解しているからこそのジョーク」という気分で言ってしまう人もいるのでしょうか。そうなると先ず理解しているつもりであって一切理解していない、という大変残念な姿を周りに見せてしまっていることになりますね。当事者として言われて苦しい言葉ではありますが、言った人の器を測る言葉でもあるなあとつくづく思う言葉です。
【5】まとめ
セクシャルマイノリティ当事者ならば、言われることの多いこの言葉。昔話とともに考え直してみると、まだ複雑さを残しているような気がしてきました。多数派である異性愛者も「恋愛は常にしなければならない」という圧を感じているのかもしれない、だから条件反射的に言ってしまうのかもしれない等々、もしかしたら異性愛者も異性愛者で大変なのかもしれないですね。
けれど、私の友人がその言葉に苦しんでいたのも事実で……。田舎でしたから、余計に少数派が受け入れられにくい場所でした。だからでしょうね、ある日突然友人は地元を去りました。それからもうかなりの年月が経ち、たまにぼんやりと「元気だといいな」と友人の顔を思い出します。時には学生時代に撮ってたプリクラを入れた箱を開いて、笑顔の友人の姿を眺めてみます。
どうか、これからセクシャルマイノリティの人もそうでない人も、傷付いたり辛い社会にならないようにと願いながら。
(Shano編集部)
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