前回は、私がポンコツ障がい者であることお話しました。そして、とんでも人事のびっくり話なども披露しましたが、個人的にはまだまだには色々と逡巡することはあるものの、今は昔よりマイノリティーにとっては住みやすい世界になったと思います。
【1】さまざまな“マイノリティ”が暮らしやすくなってきた
セクマイに特化した人材紹介会社まであるのには驚きを隠せませんでしたし、私達のような“セクマイ”に今変わりつつあるのではないでしょうか。
筆者はアメリカで大学時代を過ごしたこともあり、日本の“ソト”の世界も少し他の方より知っているかもしれません。
セクマイに限らず、例えば、男女平等の流れから、“女性”という括りでも随分と暮らしやすい世の中にはなったと、日々を重ねる上で感じています。
【2】インターネットによりフラット化する世界
私は大学では、政治科学と歴史を専攻し、勉強をしていました。そして、その影響で、政治関連の書籍を今も細目に読み続けているのですが、衝撃の一冊がありました。
「The World is Flat」(邦題「フラット化する世界」(2005))。著書のトーマス・フリードマンは既に三度ピューリッツァー賞を受賞し、「New York Times」にてコラムを連載している政治評論家で、ご存じの方も多いかも知れません。
フリードマン氏によると、インターネットによりグローバリゼーションが超加速度的に進み、人々が世界中どこからでも情報を得られる中で、社会で個人の社会的立ち位置がフラットになり、世界はあるフェーズを段階を追って突き進んで行く、というのが彼の著書のテーマです。
Windows 95が発売されて以来、インターネットが個人間を文字通り駆け巡り、その結果個人の「知覚的変化」をもたらしたと著書は語ります。そして、それは今起きていることなのです。
私たちは今、例えば自分の似たような人間が何をどのように生きているのかを知る事が出来る“今”の時代に生きているのです。グローバリゼーションは経済の面においてのみ頻繁に議論されますが、“個人”の存在の意義までを変貌させたのはあまり認識されていないかも知れません。
【3】フラットな時代と社会
インターネットにより、社会のヒエラルキーが流動的になり、今までマイナリティー、若しくは貧しかったものも、先進国のように同様の土俵で勝負が出来る社会になりました。
(もちろんその段階には軋轢や問題もあるけれども)つまり、インターネットにより加速された「Diversity」(多様性)が個人の認識を変化させ、また社会がそれを受容する世の中になりつつあるのです。
だれが、インターネットが普及し始めた1990年代にこの事が予想しえたでしょうか?
2005年にその書籍を読み終えた私は、当時本を読みながら、インターネットが世界を変える、今までの様な“固定化されたヒエラルキー”が、崩れフラットな社会へと変貌する世の中になる…と思ったものです。
【4】多様化の流れは止まらない
私自身は、保守的な米国ミネソタ州のキリスト教ルーテル派のリベラルアーツの大学で学び、セクシュアリティをカミングアウト出来るような環境では有りませんでした。
しかし、1995年から2000年までを米国で過ごした私は米国や他の先進国が経験することを、「日本も同様に経験する」と思ったものです。
そして、今、日本では“移民”、すなわち多様性に、そして“マイノリティーの権利”が謳われ、その動きはもう止まらないでしょうし、“必然”なのだと思います。
【5】まとめ
この「グローバリゼーションがもたらした“フラット”な社会」で私たち、セクシュアル・マイノリティーの生きる選択肢、生き方が変わり、一人ひとりが自分とは違うコト・モノ・人を受容することでしょう。
これからの行く末が楽しみです。
(田中裕子/ライター)
参考文献
トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳(2006)『フラット化する世界(上)』日本経済新聞社
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