デミセクシャルかとも思ったけれど…やっぱりアセクシャルだと感じた瞬間

デミセクシャルではなく、アセクシャルだと気づいた瞬間

先日の記事では、私はある方に「愛」を覚え、自身もそのことに胸を躍らせ、興奮もしていたことをお話しました

そのため、デミセクシャルなのかと疑いましたが……。やはり私はアセクシュアルだと再認識しました。

 

【1】疑ったものの…デミセクシャルではないと思ったきっかけ

でも、よく考えたら、私は仮にその方と両想いになっても、性的行為は難しいと思いました。そして、冷静に考えてみると、私の愛は尊敬、畏敬の念、そして憧れだと気が付いたのです。

その方は今を風靡する投資家の方でしたが、私は過去に外資系金融会社で企業買収などに携わってきた関係もあり、投資家の皆さんともお仕事をする機会にめぐまれていました。

そのような投資家の方はキラキラ感もままあり、人間的に魅力的な方がおおかったのです。そして、そういう経験の中から、私はある方に愛を覚えてしまったのですが、やはり私はアセクシュアルなのだと実感しました。

過去に離婚歴はあるものの、結婚という制度も私にはそぐわないと感じたからです。やはり、一番心地いいポジションというのは、アセクシュアルだと再認識しました。

 

【2】アセクシャルではないと思った時に安心感を覚えたのも事実

ただ、自分が一瞬、愛を覚え、“アセクシュアル”というポジションから離れていたら、なぜか“一瞬の安心感”を覚えました。

それは、恐らく世の中の大多数に属する安心感からだったと今では思っています。

「マジョリティ」に属することは自分と同じ意見、立場の人間と「群れる」「一緒に入れる」などという安心感を与えてくれました。

 

【3】アセクシュアルと再認識して見えてきたもの

やはり自分が一瞬でも“マジョリティ”ないしデミセクシャルに属し、そして、再度“アセクシュアル”と認識した自分は、なぜか孤独感を覚えているのです。

それはなぜか。やはり、自己肯定感の問題だと思っています。

もし、私が本当に自分に自信を持ち、プライドを持っていれば、アセクシュアルであることに、対して逐一“自分はマイノリティー”である、そしてその結果自分は“ぼっち”である、とは考えなかったと思うのです。

やはり、少数派に属する、若しくは大多数に属さない勇気というのはなかなかガッツが必要なのではないかと思っています。

 

【4】幸せだったころの記憶への脳のリアクション

最近、興味深い現象が私の中で起こっています。

自分自身、うつ病で、精神障害者なのですが、この春に移り変わる季節というのはうつ病患者にとって“一番タフな”時期で、周りの“うつ友”も仮眠、だるさ、過食、拒食に苦しんでいるのですが……。私は、再度「自分がアセクシュアルと認識してしまったこと」で気分が落ち(うつ病というのは「気分障害」にあたります)、最近は自分が一番幸せだった9歳の頃に通っていた小学校の校歌で目が覚めるのです。

時には、自分自身が寝ながら歌を歌いながら、目を覚ますこともあるくらいです。それも、数度と繰り返してこの現象が起きているのです。自己肯定感への揺らぎが心が反応しているのではないか、と思うのです。

もしくは、幸せだったあの頃へ睡眠下にいる間にだけでも、”逃げる“ことにより私のうつや自己肯定感の低さが何とか日常レベルの生活を過ごす力を与えてくれているのではないか、と私は分析しています。

 

【5】まとめ

気分がへこもうが、私がうつ病だろうが、やはり私がアセクシュアルなのは間違いがない事実。これはもう変えられない事実。それが、先天的なものだろうと、後天的であろうと関係はないのです。

そして、その結果、落ちている気分の中で、実感することは“自分はノージャンル”と開き直るころでした。

やはり私のセクシュアリティは自分のアイデンディティーであり、それは事実(ファクト)なのだと。こうやって、だんだんと自己肯定感を高めていくのかしら、などと考えながら毎日を過ごす私です。

(田中裕子/ライター)

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ABOUTこの記事をかいた人

10万とび50歳(笑)なのに、つい最近まで自分がアセクシャルであることに気が付かなかったノホホン女子 。社会人3年経験後に、思い切ってアメリカ留学。金融に勤務後にうつ病で、障害者認定…。それでも、明るく×2にゃんずと暮らしながらアセクシュアルであることに誇りを持って楽しくライターをしています。性的に気持ちいいことは抱っこ。嫌悪タイプではなく、暖かい人肌が大好きです。